サイトウキネン 3

ファビオ・ルイージという指揮者。
音楽的な才能や見識はもちろんの事、人間としても優しくユーモアに溢れた本当に頭の良い紳士だと思う。
もちろんプライベートの事は知る由もないけれど、少なくとも指揮台の上での彼は文句のつけようがない。



こんな事があった。
マーラーの「復活」のリハーサル中、男性の合唱に対して
「ブレスをする時に、息を吸う音が聞こえない様にして欲しい。僕はそれが誰と誰と言う事はわかっているけれど、残念ながら名前を知らないので言えない」
と言った。
そこでオーケストラも合唱団も笑った。
何気ない注意とジョークではあるけれど、「誰と誰」と言った事がミソだと思った。
多分、息を吸う音が大きかった方は自分で気付いていると思う。それを(ルイージさんは僕であるとわかっているんだ)と自覚したと思う。指揮者からチェロへの注意があった時に僕も少し落ち込むしバツが悪くなると同じ様にその合唱団の自覚した方も同じ心持ちになったと想像する。
だけど「残念ながら名前を知らないので言えない」という一言で笑いを誘って重要な注意であるのにいい雰囲気で終わらせた事に感心した。

何度何度も練習番号の15番からをやっていて「これが最後。15番から。これが最後と約束をする」と始めたとたん再びオーケストラの演奏を止めて注意をした。そして「最後と約束したから15番からはもちろんしない。15番の2小節目から」とルイージさんは言った。
ここまで回数をやるとオーケストラも「またか?」と思うのに、その一言で笑いに包まれてそういう気分にもならなくなる。素晴らしい言葉を繰り出す指揮者だと思う。

去年のマーラーの5番の時もチェロとコントラバスのピチカートを合わないからと何度もリハーサルしていた時に「素晴らしい!完璧だ!これなら何も心配はない」と褒めちぎった後に「でも僕たちには一度しかそのチャンスはない」とオーケストラを笑わせてさらには釘をさした。
(あの感じでやれば良いんだ)とチェロとコントラバスの人は思ったに違いないけれど、僕らにはチャンスは一度しかないんだというその部分においての集中力を植え付け、さらには柔らかな雰囲気でその部分のリハーサルを終わらせた。


決して怒る訳でもないし、決して冗談ばかりを言っている訳でもない、そのバランスがあまりに見事な紳士なんだと思う。


僕はその頃まだ参加していなかったけれど、小澤さんがベートーベンの運命の冒頭が上手くいかなくて、「どうしたら良いんだ?」と何度もリハーサルをしてた時の事。
その時に既に海外生活が長く、英語の方が上手な日本人のとあるバイオリン奏者が言った一言が秀逸だったそうだ。
「小澤さんを見るなら全員が見る、見ないのなら全員が小澤さんを見なければ合うと思う」
とおっしゃったらしい。
でも不思議とその一言から問題なく冒頭が揃う様になったそうだ。


言葉は本当に不思議だし、その場にはその場に適切な言葉がある様に思う。
それを指揮台で言える指揮者はやっぱりオーケストラに愛されるし、ウケ狙いとわかってしまったとたんにオーケストラは一瞬で離れて行く。それだけオーケストラも指揮者の一言に耳を傾けているし、そのニュアンンスも音楽家ならではの耳で聴き取るから大変難しいと思う。
ファビオ・ルイージは愛されている典型例だけど、神奈川フィルに来る指揮者としてはサッシャゲッツェルさんもそのタイプだと思う。