サイトウキネン 4

小澤総監督が指揮をしたベートーベンの7番の前日、チェロの上村昇さんが15歳も年下の僕に
「明日は一緒に良いベートーベンを弾こうね。今から楽しみにしてる。良いベートーベンを。お疲れ様」
と言って帰って行った。
僕は嬉しかった。
次の日の小澤総監督のベートーベンの7番は僕にとっても多分忘れる事の出来ないベートーベンとなったし、その終演後上村昇さんも「ひろやすくん、楽しかったねぇ、良いベートーベンだったし、やっぱりベートーベンだよね、ありがとう」と言って帰って行った。


そのベートーベンの次の日は僕たち演奏家はDay Offで1日何もなかった。
僕は家にいる猫と遊ぶ為に、そして6日以上続いたリハーサルと4回の本番の疲れをなんとかしたくて鍼に行く為に日帰りで東京に戻った。


28日の本番ではイベールの「ディヴェルティスマン」という曲を演奏するのだけど、チェロは2人で僕と上村昇さん。リハーサル後に上村さんが僕に言った。
「オフの日はどうしてたの?」と。
「東京に帰ったんですよ。鍼に行きたかったのと、老猫と遊んであげたくて。上村さんは松本にいたんですか?」
と今度は逆に僕が質問した。そうしたら上村さんは、
「京都に帰ったんだよ。フェスティバルが始まる前からちょっと家の猫があまり調子が良くなくて、心配だったから朝松本を出て京都に着いて車に乗って家に向かう途中、家族から電話で『今息を引き取った』って言われてさ。温かいうちに撫ぜてあげたかったんだよ。家に着いたら冷たくなっててね。冷たい猫を何度も撫ぜてあげたんだけどね。もう少し頑張って欲しかったなぁ。悲しくてね。猫の葬儀を済ませてから松本に戻ったんだよね。あの日は」
と目を真っ赤にして話してくれた。
僕は貰い泣きしてしまった。
上村さんの所の猫は享年21歳だったそうだ。
うちの猫は今19歳。
重なる所もあり、完全に貰い泣きをした。


上村さんが言った「良いベートーベン」は猫ちゃんに捧げられた演奏でもあったんだな。
調子が悪く、明日にでも帰らないとと思ってあのベートーベンを弾いてらっしゃったんだなと思うとさらに泣けてきた。上村さんがご自宅にもどるまでは少しだけ頑張りきれなかったかも知れないけど、上村さんが渾身の演奏をしたベートーベンの7番を弾き終えるまでは猫ちゃんもしっかり頑張ったんだなと。



君は21年間、上村さんの素晴らしいチェロをずっと聴いてきたんだね。
それも演奏会ではなく、とにかく自分に厳しい上村さんの家での練習を。
でもこれからはいつでも天国で本番が聴けるんだね。
君がが天国で初めて耳にする上村さんの弾く曲はイベールの「ディヴェルティスマン」という曲だよ。
凄く楽しく洒脱な曲だよ。
僕は君に会った事はないけれど、天国で楽しく過ごせる為に僕も上村さんもエンジョイして弾くから。
聴いててよ。
僕は君を心から可愛がった上村さんと2人で弾ける事がとにかく誇りだから。
今度は僕から上村さんに言うよ。
「28日は一緒に楽しく良いイベールを弾きましょうね。猫ちゃんも楽しみにしてるし。楽しく良いイベールを」と。