オーケストラ・アンサンブル金沢

アンサンブル金沢には学生時代苦楽を共にしたチェロの親友、早川がいる。
僕たちがまだ25、6の頃、彼はアンサンブル金沢に入団した。
その時は
「僕も金沢に遊びに行くし、また東京にも遊びに来いよ」
と言いながら寂しいと言うより、僕たちの未来が眩しかった様に思う。
その数年後、彼が地元の甲府で結婚式を挙げた時に、彼がもう金沢で生きて行く事を決意したんだと、そのときは本当に寂しく思ったし、結婚式なのに抱き合ってお互い泣いた。
でも彼とは忘れた頃に会ったり、ご飯を食べたりはしていたし、僕が金沢市に行ったときはもちろんの事、近隣の松任市野々市に行った時は必ず会ってご飯を食べた。


今回はかなり間が空いて再会する事になった。
しかも今まで仕事でというより、久しぶりにご飯をと言う事がほとんどだったけど、幸運な事に今回アンサンブル金沢に参加する機会を得て、しかも彼と隣で弾く事になった。


僕達は学生時代本当にお金もなく、食べる物にも困った。
早川の実家からお米が届いたと言うと、僕が桃屋の「江戸むらさき」や「メンマ」を持ってそれをおかずに米をひたすら食べたり、素麺を段ボール一箱友達から貰ったときは二人でもう素麺は勘弁してくれと言うぐらい毎日素麺を食べて暮らしていた。アパートも歩いて5分程で行き来出来る距離だったし。
そんな日々も今となっては本当に楽しい時間だったと思う。
夜の22時まで学校で練習したら彼の家に米を食べに行き、その頃ブームになったファミコンの野球ゲームをしたりした。彼に結局一度も勝てなかったな。


そんな日々を一緒にオーケストラを弾きながら思い出していたな。


アンサンブル金沢は外国のメンバーが多い。
だからと言う訳ではないけれど、ヨーロッパを感じる語法をハーモニーの進行や響きから感じる事が多かった。そんな中でいつもニコニコして日本人からも外国のメンバーからも慕われている早川を見て、嬉しかったし、誇りに思ったよ。
学生時代は夢を語ると言うより、目の前にある課題や苦労を乗り越える事で必死だった。
お互い音楽家になれるのかもわからず、ひたすら練習していた時代は今から思えばかけがえもない毎日だった。
それがお互い違うオーケストラだけど音楽をしていて、話すと「そういえば学生時代はこんな事を言ってたよな」と逆に思い出し、一応夢は持っていたんだなと思い出す。


ブルガリア人のコントラバスの首席女史に「あなたの首席としての仕事は私を幸せにしてくれた。コントラバスをいつも意識してくれるあなたの仕事に感謝する」と言われたけど、お世辞だとしても嬉しい。
これは僕が最近ようやく行き着いたコントラバスとの融合する方法を彼女が感じてくれたからだ。
それが正しいのかどうかはわからない。だから音楽は深い。



僕にとっては幸せな金沢への旅だった。早川はもちろんの事、日本センチュリーから金沢に移ったスタッフのTさんや一緒に仕事ができた皆さんにも感謝したい。

仕事とは関係ないけれど、金沢の食文化の次元の高さは素晴らしかった。