言葉

どうやらいつの間にか僕は古い人間というカテゴリーに入ってきたと実感する事がある。
それは音楽や演奏の好みもそうだし、生活においても「言葉」も「ひょっとして僕は古い人間になったのかな?」と感じる時が少なくない。


当然優れた方々の事を敬意をもって表しているんだろうけど「天才」という言葉。
これを乱用して欲しくないのだよ。
天才って言われて当然のような方はどの分野にもいらっしゃると思うし、野球界でのイチローさんを始め結構たくさんの天才がいる。
サッカーも芸人もある分野があれば必ず何人も天才と呼ばれる方はいる。
当然素晴らしい才能を持ってらっしゃるから別に良いと言われればそりゃそうなんだけど、音楽を職業とする僕にはモーツァルトが天才と呼ばれたら後はなかなか天才と呼べる人がいないのが正直な所。
いやいや、メンデルスゾーンシューベルトも、ドビュッシーも、とあげれば全て天才となってしまうけれど、モーツァルトだけで良いかなと実は思っている。

モーツァルトの何が天才なのか?と言われても僕は到底説明出来ない。
いろんなエピソードはあるにしても、それがいわゆる「天才」の証明にもならないし、どうしても言葉でその凄さを説明する事が出来ない存在なんだよなぁ。

世の中、あらゆる分野で「天才」と呼ばれる人が多すぎると、モーツァルトは天才の上でなければならないと思うのよね。そうすると「神」?
でも、最近はちょっといかした対応が出来ると「神対応」と賞賛されて、神の威厳もハードルも限りなく下がってきた。「天才」も「神」も軽々しく使うなよ!
こういう時なのよ、古い人間になったのかなと思う時は。


まだ30歳前後の時にリサイタルをして、バッハの無伴奏を弾くにあたって、ほとんどビブラートをかける事なく弾いてかなり色んな方々に批判された事もあった。
学生時代からひたすらビルスマさんに憧れて、その古楽というものの真髄を掘り下げる事も知る事なくビルスマさん的に真似てただけだったからかも知れないけれど、それは批判に値すると僕も思う。
でもその後ピリオド奏法と言うか、古楽器奏者の演奏スタイルをモダンの楽器で弾く事がおしゃれだという時代がやってきた。そして今はまたその揺り戻しがあり、かなり戻ってきた時代になった。

実は学生時代、桐朋学園の中で作られたフラウト トラヴェルソの有田さんが作った古楽器オーケストラに所属していた事がある。
でもこれは全く違う楽器だった。
モダンのチェロとバロックチェロは。
それで断念してモダンで生きる事にした。
今でも鈴木秀美さんとお話をする度にバロックチェロをやってみたいとも思うけれど、そんな甘いもんじゃないし、全く別の楽器であると思っている。
僕が演奏活動を始めた頃から、いろんなムーヴメントがあったし、僕もその度に感化されたり憧れたりはしてきた。
でも今、何故か昔の演奏家の偉大さに感銘を受ける事が多い。
音楽もさることながら、音かもなぁ。
言葉も音も音楽も、やっぱり今の若い方々とは好みが古いと言う事は仕方がない事かもしれない。
だから若い人から学べるし、未だに僕の諸先輩方や先生の世代の方からも学べる。
自分は今どういう立ち位置でいるのか?それを考える事も面白い。
どんなスタイルが流行っても、結局はど真ん中を目指している事が大事な事かなとも思う。
保守って、大事な事を守る為に少しずつ進化する事の様な気がする。
でも言葉だけはどうやら違うようだな。