休養と充電

この一週間ちょっと関西に滞在していた。
バッハの無伴奏のコンサート、京響の定期公演でのマーラーの6番、そしてブラームスの6重奏の2番のコンサートを終えて東京に帰って来たけれど、この一週間の収穫は大きかった気がする。
立て続けにバッハ、マーラーブラームスと演奏して来て、音楽史を耳や身体で体感したという感じだろうか。
マーラーのリハーサルではもちろん指揮者の高関さんが細かく部分部分を抜き出しての丁寧なリハーサルが行われた。もちろん楽器も細かくピックアップしながら。巨大な編成のマーラーの通常では聴こえてこない骨格の部分はみんなバッハだったりベートーベンだったりする。
どんな大邸宅でも高層ビルでも、基礎工事があっての事。
それが根底になければ絶対に巨大なものはおろか、小さな小屋も建てられない事を改めて思った。
ブラームスもリハーサルに於いてバイオリン2本だけを取り出してリハーサルしている時などはバッハやヴィヴァルディの曲を聴いているようだった。
偉大で歴史に名を残す作曲家は当然の様にバッハの和声学、対位法、低音の進行を徹底的に研究し、それを基盤にしている。
絵の事は全く詳しく知らないけれど、ピカソの「ゲルニカ」を見て(あんな物は僕にも描ける)と思ったら大間違い。彼のデッサンは素晴らしいし、やはりもの凄い基礎の上にあの「ゲルニカ」も成り立っているはずだ。
ピカソだったと記憶しているけれど、ある人の前で一瞬にしてデッサンを走り書きして「これは100万だ」と言ったという話しがあるけれど、それはその長きに渡っての努力が生んだ実力の値段なんだと思う。10秒で描いて100万ではなく、それまでの勉強が結実した結果の値段なんだと思う。
マーラーブラームスもとにかく盤石の基礎を持って曲を書いて発展させていった。
この事を強く思った一週間だった。
京都と大阪、東京に住む僕には隣街のようなイメージは未だにあるけれど、空気がまるで違う。
良い悪いではなく、流れている時間や香る空気が全く違う。
これは各々の街に住む人々が積み上げて来た結果だと思った。
300年も前に書かれたバッハを僕たちが知る事が出来るのも、バッハの曲をとてつもなく多くの人が弾いて伝えて来たから知る事が出来た訳で、やはり歴史と言うのは曲も街も人々が積み上げて後世に届いている事をこの一週間強く思った。
演奏家は伝える事が仕事だ。
そしてマーラーブラームスの個性が盤石の基礎、歴史の原点の上に成り立つ事と一緒の様に、演奏もスタイルや曲の持つ言葉を知り、もの凄い高い次元のスキルの上にしか個性的な演奏は成り立たないという事だ。
それを知らない演奏は全て単なる「癖」だ。「自分の表現はこれだ!」と言ってもスタイルやオーソドックスな演奏を勉強していない人の演奏は「癖」から抜け出ない物だ。
盤石のスタイルを知ってその上での演奏をしないと、演奏家として後世に偉大な楽曲を伝えるという仕事は全う出来ない。
この数年、あまりにも忙しく仕事をして来た。少し休んで、もう一度色んな演奏を聴き今後自分の歩く道を整える為の考える時間にしようと思う。
まずはまるで休みもせず演奏して来た身体と心を休養させたい。