オーケストラの人間として

11月の27日と30日と2回ブラームスのピアノ協奏曲第2番を演奏する機会を与えられた。
指揮者はサッシャゲッツェルさん、ピアニストはゲルハルト・オピッツさん。
このピアノ協奏曲の第2番はチェリストなら誰でも知るあまりにも美しいチェロのソロが第3楽章にある名曲。
あまりにも美しいと言いながらも、それを弾く時の緊張度やその重圧は言葉にできない。


ブラームスソナタ室内楽、そしてドッペルコンチェルトを演奏するのももちろん緊張しないはずはないけれど、このオーケストラの楽曲の中のソロと言うのは多分コンチェルトを弾く以上の重圧がある。
例えばあまり良い演奏が出来なかった時、僕個人が「良くなかったな」と言われるだけでなく、オーケストラの顔に泥を塗る事になるし、協奏曲だから今回で言えばオピッツさんにも迷惑がかかる。
それに対しての重圧は普通ではない。



この曲を一番最初に弾かせて頂いたのは
「1992年5月18日 ゲルバー サントリーホール
と僕のスコアには書いてある。23年前だ。
この時の事は昨日の事の様に覚えている。
リハーサルが終わるとゲルバーさんに「若者よ、ちょっと来い」と言われてレッスンを受けた。
色々な事を言って頂いたけれど、舞い上がって何を言われたかほとんど覚えていない。
最終的には「若者らしく演奏しろ。ブラームスの48歳の曲だ。理解は難しいだろう。だから、若者らしく弾け」
という事を言われて終わった。
正直、その時の演奏を全く覚えていない。
23年経ったから覚えていない訳でなく、終演した直後ですら全く自分が演奏した事を思い出せなかった。
放心状態だった。
それから亡くなられた園田先生を始め、多くのピアニストとこの曲を弾いて来た。
その度にどうして上手く弾けないのかと落ち込んで来た。
練習をしていない訳でもないし、それなりの時間をかけて練習してもなかなか出来なかった。


10月の終わりにベートーベンのチェロソナタの全曲演奏会が終わり、その終わった瞬間からこのブラームスに取り組んだし、今まで自分の書き込んだ事を全て消してゼロから勉強を始めた。
その日から重圧は始まった。
どんな演奏会でもいつも重圧で潰されそうになっているけど、この一ヶ月、朝起きても最初にどういうテンポで自分は弾きたいのかを思った朝もあれば、そのソロの楽章の冒頭を思うだけで全く寝れなかった。

パニック障害は再発して呼吸が出来なくなるし、腱鞘炎や肩の痛みは日に日に増すばかりで、本番の日だけはブロック注射でも打たないと無理なのかと思っていた。
と言うのもゲルバーさんの「若者らしく演奏しろ。ブラームスの48歳の曲だ。理解は難しいだろう」という言葉が意外にも頭から離れなかった事も大きい。
そう、そのブラームスが書いた48歳を僕は超えて49歳になってしまっていたからだ。
もう若者でもない。それにこの曲を弾く最後の機会かもしれない。
今回の2回の演奏会でなんとか自分の中で1つの答えを出したかった。
同僚やお客様に呆れられる演奏を例えしたとしても自分の中での答えを出したかった。
なぜなら、僕はオーケストラで働く人間だからだ。
そして最初のキャリアである都響に入団する時のオーディションでもこの曲を弾いているから、この曲で僕のオーケストラ人生が始まったと行っても過言じゃないから。

コンサートは終わり、幸いな事に今自分が出来る全ては出来たと思った。特に2回目のミューザ川崎では。
でも僕を後で喜ばせたのは
お客様や同僚に
「この曲がこんなに良い曲だと初めて思った」と言われた言葉だった。
それはゲッツェルさんやオピッツさんの力が大きいとは思うし、僕のソロがその2人の音楽を邪魔しなかった事は大きい事だと思ったし。
そして歴史に残された名曲を紹介して後世に残して行く事が演奏家の仕事だと思っているから、それは本当に嬉しい言葉っだった。
そして、2回目の演奏中に「この曲を弾いている今、なんと言う幸せなんだ」と思った事が演奏活動を初めて思った事だった。

このもがいた23年間で、初めて自分に「よくやったなお前」と言えた日だった。