文化の違い

春の祭典」他を京都で演奏して帰ってきた。

僕には本当に体力的に辛い日々ではあったけれど、収穫があった。
春の祭典」は初めて演奏した時の恐怖感は幾分薄らいだ様に思えるし、
自分の中ではもはや古典とまでとは言わないけれど、十分ブルックナーマーラーと肩を並べるレパートリーになっている事は確かだと思う。
でも今回はその「春の祭典」についてではなく、「他」であるビゼーファランドールについて書きたい。

京都では春の祭典の他にカルメン組曲サン=サーンスの序奏とロンドかプリチオーソ、そしてアルルの女組曲からファランドールを演奏した。
前日まで神奈川フィルの文化庁の公演でこのアルルの女組曲からファランドールを何度も演奏して京都に乗り込みまたファランドールがあった訳だ。
僕は京響ファランドールを弾いたのは初めてだったけど、神奈川フィルではそれこそ100回は弾いているんだろうと思う。

同じ曲を日にちを置かずに違うオケで演奏するとそのオーケストラの文化の違いが見えてくる。
太鼓のリズム感からテンポ感、弦楽器のメロディのリズムの感じ方。
これは関東、関西という濃い味、薄味的な違いではもちろんない。
そこで育まれてきたオーケストラの言語は恐ろしい程違う。
もちろん人が違うから違うのは当然ではあっても、その音程感から感じるリズム感、そして強弱の感じ方まで広範囲に違う。
100回以上も弾いて来た、正直楽譜を見なくても弾けるこの曲で僕は完全に戸惑った。


2年前にバイエルン放送響を聴きに行ったらベルリンフィルティンパニストのゼーガスさんが叩いていた。
ベートーベン2曲のプログラムのうち一曲はゼーガスさん、そしてもう一曲はバイエルン放送響のティンパニストだった。次の年のサイトウキネンの時にゼーガスさんにベルリンとバイエルンでの違いを質問してみた。
するとやたら文化の違いの事を言っていた。
あとはメンバーの響きの聴き方がベルリンとバイエルンでは違う様な気がすると。

それを思い出した。
先ほども書いたけれど、細かないろんな事が違うけれど、結局は神奈川フィルと京響のメンバーの耳の向け方が違うんだろうと思った。
どちらが良い悪いではなく。
僕はその慣れている神奈川フィルの耳を捨てようと努力したし、京響の方々の耳の向け方を必死に探した。
でもそれはあの数分に満たない曲では見つからなかった。
練習場の違い、本拠地のホールの響きの違いと言う事もあるだろう。

シンプルな曲になればなるほどそれが顕著になる。

幸運な事に、僕は都響を辞めてから、北は札響から南は琉球交響楽団まで、九州交響楽団を除いて、ほぼゲストとして呼んで頂き、働かせて頂いた。
その当時はタイミングや指揮者に対しての捉え方の違いにばかり目が行っていたけれど、今回は耳の違いに気付いた気がする。それは僕には大きな事だった。
明日から神奈川フィルの音楽堂シリーズが始まり、来週にはまた京響定期演奏会がある。そして間髪入れずにドレスデンのオケを聴きに行く。
オーケストラは深い。あまりにも深すぎる。
日本海溝よりも深い。
耳もそうだけど、言語、方言も多少関係するのかもしれないし、そんな事をプレイヤーとして論文を書けたら面白いだろうに。
僕は街のオーケストラとしてどう育まれるのかに興味があるし、それがオーケストラをもっと魅力ある存在にしてくれるんだと信じている。だから、不必要なグローバル化は政治的にも、そしてオーケストラのプレイヤーとしても大反対な立場を取りたい。