中学の同窓会

先日の名古屋での公演には20人程、小学校、中学校の時の友人達が来てくれた。
そのコンサートの後、小さな同窓会を開いてくれた。

その中でも東京で仕事をしていた時に会った友人1人を除き、全員とは33年ぶりの再会だった。

「故郷」

確かに今東京に住む僕からすると小中学生の時に住み、そしてまだ実家のある場所が故郷なんだろう。
その友人たちの中の一人が「私には故郷がないよ。ずっとここに住んでるから」と言った事をずっと考えてた。
確かに場所はそうなんだろうけど、故郷って、お互いの心の中の原風景を共有する事なんじゃないかな?と思った。

もちろん、思い出にはうっすらながらも背景があり、その背景はその土地だ。
でも本質は、その友人との交わした会話やその人に対しての印象や想いの記憶だ。
しかもそれはその当人同士しか持ち合わせない崇高な記憶のシェアが故郷なんだと思う。

Kという小学校からの友人がいる。
彼とは中学の卒業式が終わったあと、2人で教室の机に二人で突っ伏して泣きじゃくり、
「またどこかで会えるよな」
と言いながら中学校の門を出て別れ、お互い33年という時間の旅を経て再会した訳だけど、
彼は何も変わってなかった。
彼も僕の事を何も変わってないという。
そのお互いの心で確認し合う事が出来る事、それがつまり「我々の故郷」という事になるんだと思った。

幼なじみの「さとる君」も来てくれた。
小さい時から近くを走る電車を止めたりするようないたずらや悪さをずっと一緒にしてきた仲だ。
世の中の荒波に揉まれながら生き抜いて来た「さとる君」に誇りを感じた。
「さとる君」だけじゃなく、来てくれた全員を誇りに思った。
生き抜く事がいかに大変な事か、彼らと再会してそれを強く思った。

今の僕が出来上がった頃を知る彼らと会って、僕はどうしてこういう人間になったのかが少しわかった。

でも、当然の事ながら不幸にも亡くなった友人たちの話を聞かなくてはならなかった。
信じられなかった。

その日は僕も時間がなかった事もあり、2時間程で僕はそこを出なくてはいけなかった。
タクシーに乗り込み、33年ぶりの再会の嬉しさと、また会えるんだろうかと言う不安や寂しさ、そして亡くなった何人もの友人たちの当時の顔をぼんやり思い出しながら涙が止まらなかった。

槇原敬之さんの「遠く、遠く、、」という曲がずっと心のどこかに流れていた僕だけど、
その曲の続編がこの前のプチ同窓会から始まったと言える。