絶筆

前回のブログで告知させて頂きました「寺島文庫cafeみねるばの森」でのバッハの無伴奏のコンサート、40枚弱のチケットが完売となりました。
後は僕が練習を積むのみとなりました。
ありがとうございました。


最近バッハに関してのとある本を読んでいまして、バッハの絶筆の部分の事が書かれていました。
多くの方もご存知だとは思いますが「フーガの技法」がバッハの最後の作品です。それも未完です。


僕が浪人している時に、そのフーガの技法を聴きに行った事があります。
その頃はバッハはもちろん好きでしたが、そのフーガの技法という曲は聴いた事もなく、バッハの最後の作品という事での興味で出掛けました。
浪人中ですからとぼとぼと、とある教会に行きましたよ。はい。
最近ではそれをカルテットであるとか、いろんなアレンジで演奏されますが、その時はオルガンのソロでした。
音楽の捧げもの」や有名なト短調の小フーガを思い出させるような冒頭で「あぁバッハだなぁ」と少年ながら思ったものです。


そこで聴いた後に、いろんなフーガの手法の事については読んだので、初めて聴いた時は、テーマが断片的に聴こえて来たりする事以外はどれほど凄い曲か全くわかりませんでした。
ただ、その絶筆の部分で終わった瞬間の衝撃は未だに覚えています。
演奏者によってはそこから補筆してちゃんと終止してコンサートを閉じる方も多くいますが、その時は絶筆の部分で終了。
後味が悪いとかではなく、その突然迎えたバッハの死という事に恐怖を感じましたし、バッハの死だけではなく、純然たる「死」という物への恐怖におののき、さらにはその直後に同居していた祖母が亡くなった事もあり、それから「死」と言う事についてずっと僕の心の片隅に存在していますし、一頃はその事しか考えられない時期すらありました。僕は若くして何人もの同級生、友人を亡くしましたし。



多くの作曲家が死をイメージした曲やシーンを書いています。
それらはあまりにも素晴らしい音楽となっていますし、感動しますし、「死」とはこういう物なのか!と思い込んでしまえる程素晴らしい物ばかりです。
でも、僕はやっぱりフーガの技法の絶筆部分がどうしても忘れられません。

あの教会に響いた最後の音。拍手すら出来ませんでしたし、静かにオルガンの場所から引き上げて行く演奏家を僕を含めた10人ちょっとのお客さんは呆然と見送るだけでした。
フーガの技法は最後まで僕は未だに怖くて聴けない。
あれほど影響力のある部分は他にあるのかな?


もちろん、ほとんどの作曲家には絶筆がありますが、その曲を演奏するとしても、僕は補筆された物はどれだけの意味があるのだろうと思っています。
あの最後の部分から演奏家は永遠に解決する事も出来ず、永遠に知る事が出来ない想像と妄想の旅が始ります。
それを安易に補筆するという事は僕には少し抵抗があります。
とはいえ、来月の定期公演ではマーラーの10番の完全補筆されたものを演奏する訳ですが、本当にマーラーが書いた所までを弾いて、そしてあとはお客様の想像と妄想の旅へのご招待をしたい、と言うのが正直なところです。