松本 3

桐朋学園子供のための音楽教室桐朋学園付属高校、そして桐朋学園大学というエリートコースを歩まなかった僕は実は心のどこかで凄いコンプレックスを持っている。

中学時代はバスケットボールにすべてを捧げ、高校は硬式テニスに青春を捧げた。当然そんなわけで細々と楽器を触ったにすぎないチェロで桐朋学園に簡単に入学出来るはずもなく、浪人して桐朋学園にようやく入学出来た。

ようやく入れて意気揚揚としていた訳だけど、最初にそのエリートコースを歩んで来た同級生の女の子から言われた。
「ねえ、あなたバッハは何回目?」
全く意味がわからなかった。
全6曲あるバッハの無伴奏チェロ組曲を1番からやり始めて6番
まで終了し、さらにもう一度1番からやり直した回数を僕に質問したらしいのだ。
僕は1番を歯抜けで、そして3番も数曲弾いただけだったから、何回目?という質問には0回としか答えようがなかった。
彼女は2回目で4番まで来ていると言っていたな。
その4番など聴いたこともなかったのが正直なところだった。

そこから僕のコンプレックス人生が始まった。
かといって卑屈になったりはなぜかしなくて、その彼女の言葉をバネに「今に見てろ!」と思うこともなかった。
ただ、中学、高校とスポーツにすべてを捧げていたので、単純に彼女が4時間練習するのであれば8時間練習すればいつかは追いつけると思っていたのが懐かしい。

まあ本当に8時間は練習してた気がする。
ずっと学校の廊下の片隅を占領して、そこに住んでたようなものだ。ちょうどそのころにコントラバスの池松にすごいオケのコンサートがあるから行かないか?と誘われたのが今のこの松本のフェスティバルの前身でもあるサイトウ記念オーケストラだった。

そんなオーケストラ、遠い存在でもなく、雲の上の存在でもなく、僕には一生関係の無い存在だと思っていた。
それに将来こんな中で弾けたらとも思う事すらなかったな。
そもそもチェロを弾いて生活できるということなど考えもしなかった。

僕が生まれたのは終戦から20年少し経った時だ。
この松本でのサイトキネン・フェスティバルが始まって今年が20年。なんて僕は終戦に近いのかと思った。
そして20年という速さと重みを今ものすごく感じている。
今後10年なんてあっという間だろう。

コンプレックスがなくなる事はないと思う。でもコンプレックスを感じている時間なんて僕にはないとも思う。いかに生きるかしかないと思う。幸せは手にするものではなく、感じるものだと思うし。