稲葉旅館物語 2

週刊文春の「疑惑の銃弾」には何故か真剣だった。
自分も取材をしている様な、また三浦和義氏が住んでいた高井戸の自宅にも行ってみたいとすら思っていた。
好奇心が強かったとは言え、やはり入学試験に来ている者としてはどうかと思う。
音楽大学を受けようと決心したのも1年ちょっと前、実技の心配ももちろんあったけど、それより何より初体験であった副科のピアノやソルフェージュの心配は相当なもので、いつもその事に押しつぶされそうだった。そこから逃れようとしてたんだろうなと思う。


親切にもピアノは当時高円寺に住んでいたスズキメソッドで知り合った友達の家で練習させてもらった。大豪邸だった。
その友達に「だいたい音大に行って将来どうすんの?」と聞かれた事を覚えてる。
当然、答えられなかった。
高校2年の夏ぐらいまではテニスに熱中し、試合で勝ち進んで体育大学の推薦入学を目指していたぐらいの男に、音大に入って将来何になる?なんて答えられるはずもなかった。


練習をさせて頂いた夜、稲葉旅館に帰って来て、ずっと音大に入ったらどうするんだと考えた。今もそういう所があるけど、悩み出すとどん底に落ちるタイプである。
その頃はバッハが好きで好きでたまらなくて、ひたすらバッハを聴いていた。当時はもちろんレコードと呼ばれる物で、その中に『ヴィンシャーマン指揮、ドイツバッハゾリスデンのブランデンブルグ協奏曲』『カール・リヒター指揮、ミュンヘンバッハ管弦楽団』等々、比較的小規模なオーケストラ、弦楽合奏団が多く、こういう所で働けたらと願っていた。これがその頃の唯一の夢だったと思う。


でも実際、どういう方法で入るのか、実際あれはみんな職業なのか、など本当に何も知らなかった為、目標ではなく夢であった。

稲葉旅館の夕食の時知り合った人達とは必ず「どこの大学を受けるのか?」という話題から話は始ったし、音大と言うとほとんどの人が「将来どうすんの?」と聞いて来た。いろいろと質問されて初めて知った事は「僕は音楽、音楽大学、音楽の仕事について何も知らない」という事だった。

自分の目指す桐朋学園大学についても、自分の師匠が教えてる事と、小沢征爾さんがそこの出身である事ぐらいしか知らなかったし、当時僕の中で神様であったYMO坂本龍一さんは東京芸大出身であって桐朋ではない事をちょっと残念に思ってた程の情けなさ。

だからこそ、入学試験の期間に稲葉旅館で悶々と考えれば考える程、妙に大学に入ったら凄い事が出来るのではないかと期待が膨らんでいく事になった。