311という日

あの日から1年。
震災の事はもちろん、原発、人の死、恐怖、そしてそれに対して何が出来るかなんていう事を考えて来ました。
でも、何も出来ない事がわかりました。
結局は、僕は僕なりに自分のやらなきゃいけない事を必死にやり、それがいつか被災された東北の方々の為になるのかもしれない、と思っております。

僕が1番自己嫌悪に陥ったのは、これだけの方が亡くなり、これだけの方が被災したのを目の当たりにしないとこういう事を考えなかったのかという事なんです。
人間だけじゃない、牛や鶏、犬や猫がやせ細ってそして死んでいく映像を見て涙を浮かべているだけで何も出来ない自分がいて、ただ泣くだけの自分がいる。
なんて情けないんだろ。

2万人の亡くなられた方々にはやっぱり家族がいて、親戚もいる。そしてその友人や同僚となると100万人、いや1000万人の悲しみがこの日本にはある。
それ以上だろうな。
兎に角、亡くなった方に対して恥ずかしくない生き方をしなければ申し訳ない。
そして絶対に忘れない事。
それだけです。僕のできる事があるとすれば。

天皇陛下のお言葉から放射能という言葉が語られた事にはびっくりした。
でもニュースではその部分はどんなテレビ局でもカットされていた。
そりゃ時間的な制約もあるだろうけど、重く受け止めた方が良いと思う。

報道ステーションの古館さんが「僕は番組を降ろされてもいい、原子力村とは、、、」と生放送でおっしゃった。
多少のセンチメンタリズムもあったのかも知れないが、すごい事だと思った。
でも、なんでも言える現状がない国は3流国家だ。
そんな事で降ろされる様な国は滅びればいい。
あの一言は野田首相のどうでも良い原稿を棒読みするものなんかよりもよっぽど人間的であり、強い言葉だった。
原発再稼働の住民への説得は先頭に立って、と野田さんは言うけど、全て検証が終わってからじゃないか?
ユッケで死者をだした会社は警察が入って解散したけど、それに例えれば、亡くなった方もいるけど、まあ想定外の肉があったんでしょう、だから再びユッケ出します、それを首相が先頭切って国民を説得すると言うのと何も変わらない。

僕はただただ愚直にも必死に生きようと思う。