残り2.5ヶ月

ベートーベンの131を演奏してから疾風怒濤の毎日だった。
ただでさえ131に叩きのめされて、心身共にどん底まで落ちた上での疾風怒濤の生活。確かにその忙しさが気持ちを和らげてくれた事も否定は出来ないけれど、ブログを書く時間も無く、書ける時間があったとしても頭がもはや飽和状態で、ここ10日間は考える事も出来なかったな。


モーツアルトの「レクイエム」を演奏した2日後に同じモーツアルトの「レクイエム」を聴きに行ったり、ベートーベンの最後のピアノソナタを聴きに行ったりとインプットにも務めたけど、気持ちは上がらなかった。
そうこうしているうちに10月も半ばにさしかかり、あと2ヶ月半で2011年が終わってしまう。
オーケストラの仕事も結構あるし、室内楽のコンサートやピアノカルテットのツアー、リサイタル等もまだまだあり予断を許さない。
今月の22日の室内楽のコンサートが終わると少し時間を取る事ができるので、ゆっくりと休みたいし、ゆっくりと練習もしたい。


先日、レーゼルというピアニストのベートーベンのソナタを聴きに行った。
その時思ったのは、観衆はもちろん演奏者本人に対して惜しみない拍手を送るのだけれど、そのうちの何%の拍手がベートーベンに対して送られているのかと言う事だ。
個性的な演奏で惹き付けられ心を動かされる事で感動する事もあれば、何も足さない、何も引かない、作曲家の神髄を突き詰めた演奏に打ちのめされる事もある。
その作曲家の神髄に到達した演奏は派手ではないものの、作曲家の想いの奥底を伝えてくれる演奏でもある。そんな演奏に手が痛くなる程拍手をするのだけれど、凄い作品があり、それをちゃんと伝える演奏家がいるという事に僕はどうやら拍手をしているらしいんだな。


派手さは無いと書いたけど、何も足さない、何も引かない演奏にも凄い表現が存在している。それを聴き取るだけの耳や情報収集力が結局僕の演奏にも返ってくるんだろうなと思った。そこを鍛えないとな。本質を見極める力、これこそが大前提になければいけないと。
それにしてもベートーベンの最後のピアノソナタのop.111は凄い曲だった。これ以上のソナタは想像出来ないし、あとはディアベリ変奏曲しかないんだろうなと。

僕は絵を描くのが苦手で、僕が言ってもなんの説得力もないけれど、ピアノソナタは1cm四方に絵を描く様なものかなと思った。カルテットは10cm四方の紙に、オーケストラ曲は1m四方の紙に書く感じなのかと。従って、1cm四方に何かを描くとすればもの凄い音をそぎ落としていかなければ書けないだろうし、逆に1m四方の紙に書くには大胆な発想もさることながら何も書かないスペースの部分が結局は勝負なのかと。

創作と言うのは本当に凄い事だ。その創作という事には最大の敬意を表しなければならないとつくづく思う。
なんかの番組で「和菓子と季節のコラボレーションですね」なんていう料理のレポーターがいたけど、そういう安易なコメントは言うとその人が本当に気の毒に見えて来るから言わない方がいい。
和菓子はもともと季節の中から創作された芸術なんだから。

さて、練習すべし。創作してくれた人への感謝は練習しかない気がする。