アミーゴ!

地元の友達よ!


この場を借りて手紙を書きたいと思う。


まずは謝りたい。
毎日の忙殺にかまけて連絡もせず、その連絡の方法すら探そうともしなかった僕を許して欲しい。これだけパソコンや携帯電話が普及して、容易に連絡ぐらい取れるだろうに。申し訳ない。


高校の同級生で連絡を取り合う友人は数人いるけど、小学校、中学校の時の友人の連絡先を知っているのは皆無に等しい。
みんなそうかもしれないけど、僕はこの年齢になるまでなりふり構わず、あまりに必死に生きて来た様な気がする。そして今も必死で生きている。でも、数年前から僕は小学校や中学校のホームページを見たり、前に住んでいた春日井の家からグーグルのストリートビューで小学校まで眺めたり、なにかあの頃を自分に引き戻そうとしていた形跡がある。そして母親を亡くしてから実家、育った土地を思い出す回数も格段に増えた。
余裕が少し出来たのか、それとも人生の半ばを過ぎ、自分の原点を探し出したいからかは分からないけど、何かが気になる様になり、それに拍車がかかっていた事は確かだと思う。



小学校の同窓会を開くという連絡をもらって、そこからここ数日で何人かの友人からメールをもらった。その中でこういうメールがあった。
「覚えてる?名古屋空港の近くのMの家でYMOを聴きながら踊ったのを。坂本龍一とひろちゃんの写真をブログで見てマジ感動したよ。目頭が熱くなった。あの時憧れたYMOのメンバー、あの坂本龍一だぞ」と。
もちろん覚えていたよ。あれは中学生だった。狂ったようにYMOを聴き、YMOのようなバンドが出来る事を夢見た時代だった。
僕が坂本さんと一緒に弾いた喜びを、彼は一緒に喜んでくれていた。僕たちはYMOにいろいろ教えてもらい、育ったんだからね。
この一文を読んで本当にとめどなく涙がこぼれた。
坂本さんと会えた事を1番喜んでくれるのはあの時一緒にYMOに狂乱していた友人達だったんだと気付いた。



僕たち、若くして失った友人も何人もいるよね。
すぐに地元に帰って葬儀に出る事も出来なかった。一人で悲しんで落ち込んでいた。「生きていると言う事だけでも喜ばないと彼らに失礼だ」と仕事で落ち込んだり、耐えられないぐらいの状況にあった時もそう思いながら歯を食いしばった。
早くに逝ってしまった彼らのお墓参りもそろそろしたいと思っている。
まるで東京という無人島、あるいは獄中にいて、ようやく日本、あるいは娑婆に「恥ずかしながら山本裕康、帰ってまいりました」という状況に似ている。
来年の1月の同窓会にはまだ出所の手続きで出られないけど、これからは小さな集会からでもいいから、多くの地元の友人達と会っていろんな話をしたい。
そして山本裕康という人間がどこから来たのか、どういう部品で出来ているのか、そして何が原点となっているのかを探してみたい。


僕が今こうやって必死ながらも生きていけるのは、音楽の仕事での親友、友人に助けられている事ももちろんだけど、僕が生まれ育った多くの地元の友人達にも支えられて生きてられるんだと言う事を心から感謝したい。
かけがえのない「春日井市」と「名古屋市」は、生まれ育った大事な街である事は永遠に変わる事はない。そして社会人として、家庭人としても立派な人間になったであろう地元の友人達と再会する事は、事業仕分で軽く仕分けされる様な暗くなりがちなギリギリの僕の明るい未来の材料になってくれるだろうし、その日を首を長くして待っていたいと思う。


僕という人間の基礎を作ってくれた友達よ、近々会えて話せる事を楽しみにしているよ。
そして最後に連絡をくれて有り難う。
感謝の言葉も見つからないよ。

中日ドラゴンズが日本一になるかもしれないこの2010年。
忘れられない年になりそうだ。

みんなからのメールを読んでいると、どうしようもない検察や中国の事なんてどでも良く思えて来る。そして僕にはいい友人がいて幸せだけど、検察のやつらがあまりにも哀れな人達でつまらない人生なんだと思ってしまうぐらいだよ。


ありがとう。