宮崎雑記帖 2 バッハについて

ブランデンブルグ協奏曲全曲の演奏会が終わりました。
今まで単独で3番だけ、5番だけ、4番だけをやったりとそういう経験はありましたし、一応回数のばらつきはあるものの、全部演奏した事はありましたが、一度に全曲演奏した経験は初めてでした。

それにしても今回バッハの凄さを改めて知ることになりました。6番の2楽章を弾いている時など、涙が出そうでしたし、この全曲のどこをとっても素晴らしいし感動的。
ある意味官能的でドラマティック、こんな安っぽい言葉でしか表現できないのがあまりに情けないですが、終演後チェロの上村昇さんとこのバッハの凄さについて4時間程語り続けましたが、その素晴らしさを表す適切な言葉がなく、とにかく日本語にも英語にもドイツ語にも単語として存在しない今日の様な想いをしたり、感じる事を総称して「セバスチャン」という一語に集約しようと決めました。
使い方としては、途中ベートーベンの後期のカルテットの曲について話が及びましたが、「あの後期のカルテットもセバスチャンだよな」という様な使用法です。

マタイ受難曲の話になりかけましたが、これを話していると、音楽祭も終わってしまうということで、今日は無伴奏チェロ組曲までのバッハ論で幕を閉じました。この話題も結局結論なんて出るはずもなく、「無伴奏チェロ組曲を弾くときは百年の孤独どころじゃない、千年の孤独の境地だよな」という上村さんの言葉に激しく賛同。
そしてとにかくブランデンブルグ協奏曲は「セバスチャン」だった、じゃあお休みなさいと別れました。

バッハのあの多声部の音楽の高みに感動しっぱなしの数日間でした。
そして今日の演奏会での全曲演奏は芸術の普遍性と一向に色あせないバッハの崇高さを再び背負わされた僕には大変貴重な時間となりました。