マーラーの3番のシンフォニーを聴いて来た

15年以上前、都響で、そして今日の指揮者のインバルさんでマーラーの3番のシンフォニーを弾いた記憶はしっかりと頭に残っている。
そして今日、都響・インバルさんでのマーラーの3番、いいコンサートだったしいい時間を頂いたという気持ちで一杯であります。


この曲、割と気軽に「俺、マーラーの3番好きだな」と偉そうに言い放って過ごして来たけど、今後はもう言わない。
あまりの凄い曲である事に恐れをなした、と言うのが今日の感想です。
それは演奏が素晴らしかった事は言うまでもないけど、そこから浮き上がる震え上がる程の内的なテーマ、人種、民族、宗教、そしてニーチェという巨人が見え隠れするとんでもない曲だと感じた。


これに果敢にもチャレンジするのがプロの演奏家かも知れないけど、僕は完全に怖じ気づいている。
ニーチェを最近読んだけれど、マーラーリヒャルト・シュトラウスも何の啓示を受けていろんな曲に記したのか、僕にはまだわからない。
読んだと言ってもニーチェ入門的な本でしかないし、「ツァラトゥストラはかく語りき」をちゃんと読んだわけでもない。


非常にまずいぞこれは。
夏までには「ツァラトゥストラはかく語りき」を読まなくてはいけないなと思う。
サイトウキネンでの「サロメ」や神奈川フィルで弾かせてもらう「ドン・キホーテ」の為に一歩踏み込んだ違った視点からの勉強が必要。
もちろん4月23日の神奈川フィルでのマーラーの3番には到底間に合わないけど、楽器を弾くだけでは絶対に知り得ない深淵な知や哲学を少しでもインプットしないと、今の僕にはマーラーの3番、は弾いてはいけない気がする。その23日の定期演奏会、休みたくなって来た。5月の2番も、来年の4番5番6番も。完全に僕はマーラーを甘く見ていたな。
本当にまずいぞ。

インバルさんはその思想哲学が散りばめられた大きなマーラー像をサントリーホールに投影させていた。
凄い事だと思った。
指揮者の棒をオーケストラは見ているのではないな。
指揮者の生き様を見ているんだな。
マーラーとどれだけ向き合って話して来たか、それだけだな。

僕はマーラーに対して完全に無知だった。この歳にして、恥ずかしい。


あのコンサートホールでマーラーの音楽に包まれながら思考する時間、これはマーラーだけじゃなく、これからもっとその時間を増やそうと思う。