夜中の渋滞中に考えた事

人間を「死にかかわる存在」だと言ったのはハイデガーだけど、死ぬ事という前提に生まれて来て、今を生きている人間にとって、死は追い越す事ができない存在という意味らしい。
だから人間は死に対する態度を前もって理由付けしている。悔いの無い人生を送ろうとか、その日その日を精一杯生きる等々。
と言う事は自分の「死」に対して対決姿勢をはっきりさせている証明であると。


そこにリンクするのが、自分はもちろんの事、人間一人一人の各々の仕事。どんなに素晴らしい仕事を成し遂げたとしても、それはその人にとっての完成型ではなく、その成し遂げた人は、その先にまだ何かを求めるような人であるからその時点で偉業を成し遂げる事が出来るんだと思う。
「田園」を書いたベートーベンは偉業をすでにその時点で達成してるけど、まさかその先に「第九」を書くなんて思ってもいなかっただろうな。そこが凄い。そうするとあの8番のシンフォニーの持つ意味がもの凄く大切になってくる。
「死」によって、いつだってどんな偉人だってその先に続くであろう研究や勉強はある日突然遮られる。それは誰かに引き継がれ、何らかの形で完成しさせてくれるのかもしれないけど、僕なんかは本当に弱いから、その遮断される事の恐怖におののいている。そんな日々から早く脱却したいな。


スペインのバルセロナにある「サクラダファミリア」は完成までにあと100年かかるとか、200年かかると言われています。
完成品を見る事ない事を承知して当たり前の様に仕事をしているという良い例かも知れない。僕には出来ないな。
完成品をこの目で見たくて仕方ないだろうな。そもそも仕事とは、社会への貢献であるという事なんでしょうね。


僕は情けない事に何かの結果を求めて、そしてその結果(人の評価や噂の類い)に一喜一憂して来た。それはこれからもそうだと思う。それはしょうがない事だけど、自分の事を気にする時間があったら偉大な音楽をもっとしっかり読み込まなければ。


「死」の先にあるだろう決して僕は見る事の出来ない勉強にまで立ち向かう勇気が欲しいな。


夜中の渋滞の中、ラジオも音楽も聴かずにハンドルを握っていると、思わず思索を巡らせてみたくもなるけど、あまりの知識の無さと、哲学の系譜を知らないが為にかえって混乱を生じるのが関の山です。