第九について

先日、名古屋で地方版の新聞をゆっくり喫茶店で読んでいた所、指揮者の斎藤一郎さん(セントラル愛知交響楽団常任指揮者)のエッセイを発見。
じっくり読みました。というのも、12月10日の名古屋での第九はその斎藤一郎さん指揮でしたし、さらに常々僕もうっすらと思っていた事をズバリ素晴らしい文章で書かれていたからです。

日本では今年およそ160公演の第九があるそうです。歌う人、演奏する人、そして観客を入れたらおよそ20万人が参加する1大イヴェントになるそうです。
僕は、その20万人の方々がベートーベンが曲をつけたシラーの詩の意味をどう思いながら弾いたり歌ったり聴いたりしているのかを知りたいのです。。
一般的にベートーベンの哲学的思想については自由、平等、博愛がベースになっていると考えられている事がほとんどです。ベートーベンは政治的にはかなり感心を持っていたとされていますが、実際は自由については全面的に支持していましたが、平等は全く支持していませんでした。専制政治に抵抗する曲は書く一方、労働者階級を蔑視して自分を含む高貴な人々から締め出されるべきだと考えていて、エリート階級を占める一部の階層を支持して彼等が持つ権力がいかに賢明に使われるかに興味を抱いていました。
でも

時流が強く切り離したものを すべての人々は兄弟となる

とか

快楽は虫けらのような弱い人間にも与えられ

そして

抱き合おう、諸人(もろびと)よ!この口づけを全世界に!
という歌詞がある。
平等を支持しなかった彼が一体どうしたというのか。
教会に行っていた記録もないベートーベンですが、彼の言うGODは永遠で全能で全知で、救いや慰めをもって訴える事のできる人間的な神でなければならなかった。

とはいうものの、僕がそういう事を知ったのは数年前で、100回以上は弾いている筈の第九のうち、それを知ってから弾いたのは極僅かです。
知ったからと言ってこの第九の価値が下がる事も全くなく、ちょっとした謎がむくむくとわき上がったに過ぎません。歌詞の内容を知っていても知らなくても、また熟知していてもこの曲の偉大さは色あせる事はありません。ただ、言葉がある曲ですから、今の世界が平等でもなく差別がある中、このベートーベンの書いた渾身の作をみなさんがどう捉えているかを知りたいのです。
指揮者のインバルはその兄弟というのは黒人もユダヤ人も入っているのかと皮肉るコメントを出していますし、まだまだベートーベンの思い描いた神は出て来ないようです。
ノーベル賞授賞式で「正義のための戦争」を語ったオバマさんには失望しましたが、ほぼ無宗教の僕には宗教という枠を超えた人間としての何か強いメッセージを出す人が現れる事を願いますし、その点ではベートーベンとは僭越ながら一致しております。

今年、第九を歌われる方々、演奏する方々、そしてなにより聴かれる予定のある方々、宗教については僕は何もわかりませんが、ベートーベンの複雑な想いを頭に浮かべながらもう一度今のこの世の中の実態を想像してみるのも良いかもしれません。

斎藤一郎さんは男を感じる無頼派的な方に見えますが、レーサーのライセンスを持ち、俳句を愛し、そして新聞に書かれたような素晴らしい文章力を持った方で、凄く魅力的な方です。