ワールド・カップ・悲ストリー

ワールドカップを語る前に、僕とワールドカップの関わりの物語を書いておこうと思います。

もちろんサッカーはゴルフと同じぐらい異常とも言えるほど好きで、観戦も好きだしテレビで見るのも好きだけど、特にこのワールドカップと言う物は観なければならない義務が僕にはあるんです。

大学生の時、1986年のメキシコ大会を仙川のアパートで深夜、朝まで毎日テレビに食らいて見ていました。そんなある日ちょっとセピアになった記憶が突然蘇りました。
中学時代、僕はバスケットボール部でしたが、仲の良い友人のYがサッカー部で、彼に勧められ1982年のスペイン大会を見てワールドカップにハマり、まだ深夜中学生が出歩く事は御法度であったあの時代、Yの自宅に行き、深夜もずっとスペイン大会を二人で見た記憶が蘇ったんです。

(当然Yも絶対今テレビ見てるだろうな)と思いましたね。
(そう言えばYは元気かな?)
(大学に行ったんだろうなぁ)
(頭良かったから、ちゃんと現役で大学入ったんだろうな、懐かしいなあいつ)
(明日、誰かに電話して彼の電話番号を教えてもらって電話してやるか)
などといろんな事を考えていました。
その時、何処の国と国が戦っていたのか今ではもう忘れてしまいましたが、やはり深夜ワールドカップを見ていたわけです。
当時、もちろんメールもありませんし、携帯電話もありませんでした。だからアパートにある普通の電話でした。ついに留守番電話を設置してご満悦の頃でしたね。
深夜その普通の電話が鳴りました。
一体誰だ?こんな時間に。と思った瞬間、ひょっとしてYからか?と思いながら電話を取りました。
少し外れましたが、なんとそれが中学時代の同級生だったんです。
「元気かよ?」と僕。
「うん、まあね。ヒロヤスは?」と同級生。
「俺?元気元気!今ワールドカップ見ていてさ、前回の時に一緒にワールドカップを見てたYを思い出してたけど、あいつ元気?」
「え??・・・」
「どうした?」
「そのYが死んだ・・・」
「・・・・・・・・・・」

深夜の交通事故でした。
虫の報せという言葉がありますが、確実にYは僕の所に現れたんだと思っています。
お前の分まで俺が生きている限りちゃんと見て、天国のお前に終わったら報告する と誓いました。

その後僕がイタリアに行った年の「イタリア大会」、日本がドーハの悲劇で出られなかった「アメリカ大会」、日本が初めて出場した「フランス大会」、「日本韓国大会」「ドイツ大会」とずっと見て来ましたが、彼が大好きだったフランスチームがどういう結果で終わったかを必ず彼に報告しています。
ごくたまにこの話を人に話すのですが、あまりに出来過ぎていると必ず言われますが、脚色もない事実です。

毎回落ち着きを無くすぐらい楽しみでたまらないのですが、その度に悲しい思い出も一緒に蘇ります。