説明できないもの

やや黄色がかった風に背中を押され、緑したたる芝生の絨毯を足裏に感じながらふと目の前に広がる青き丘や遠くの山を望む。
季節柄くしゃみに支配される友人の思わぬ奇麗な立ち居振る舞いに、彼の人間としての清潔さを見る。
また普段は繊細な音を出すもう一人の友人の尋常ならざる集中力を垣間みて繊細さとは強さなのだと教えられ、
豪放磊落な音楽を信条とするさらに別の友人の緻密さと正確さに大胆とは全ては計算ずくであるのだと知る。
30年来のビジネス・パートナーより、1日一緒にプレイした方がその人物を理解すると言われる。
ついにその季節がようやく、それも堂々とやって来た。
その神聖な緑の箱庭では音楽もチェロもオーケストラも忘れ、1日自分と自然とそして少し土に汚れた白い600円の球と戯れる。
その緑の遊び場で最も素晴らしい事は、人種も男女も地位も名誉も全て俗世間に置いて来なければならないという事。
我が夢であるチェロ共和国にも似た、いやそれに等しい桃源郷
はるか昔の少年時代、用水路でザリガニをとり、矢鱈目ったらむやみに草が覆い茂る草原を走りまくった頃の追体験でもある。
他人とスコアを争う事は目的にあらず、ひたすら自分を客観視し、絶対に二度と手にする事のない過去を追いかけながら変えられる可能性を秘めた我が未来をどこまでも夢を見るという目まぐるしい半日は、どれ程幸せな時間であるかを説明出来る手段を知らない。
西洋人は孤独を得る為に街に出る。
東洋人は弧独を得る為に山に入る。
そうだ、楽器を置いて山に入ろう。
十分に弧独を楽しんだら、楽器を持って街に出て再び違う孤独を味わおう。




しかしゴルフはそんな浅い物ではない。