チェロ・グランド・コンサート 雑感

ついに一週間に及ぶ先生方、先輩方、後輩達との生活が終わりました。
本当にいろいろと思う事もあり、学ぶ事もあり、楽しくもあり、僕にとっては凄い収穫の一週間でした。


このコンサートは桐朋学園同窓会が企画、運営したコンサートでしたが、2年以上まえから準備は始っていました。
この皆さんが忙しい秋のシーズン中に、それこそ第一線で活躍されている人達のスケジュールを一週間フリーにしてもらう作業から始りましたから、このコンサートのオファーは2年ほど前だったと思います。
僕も一度はFAXを返信して、申し訳ありませんが、既に予定が入っていますと送ったのですが、事務局から、「もう一度確認させて頂きたいのですが、2008年の10月ですが」と連絡があり、2年後の話と初めて知りました。

名古屋や富山のお客様から来年も是非という事を言われたみたいですが、スケジュールがまず皆さんあける事ができないんだと思います。


学生時代散々怒られた先生と昔話に花が咲きましたし、その怒られ具合をその先生の前で後輩に笑い話として伝える事も出来ました。
しかしながら、今、こうして僕がチェロを弾いて生活が出来ているのもその多くの毎週激怒してくださった先生のおかげですし、講習会などで年に1度怒鳴られまくった先生のおかげでもあるんです。
その時の落ち込み度合いは半端ではありませんでしたが、一人の人間を育てるにはもの凄い時間がかかりますし、怒鳴る事も怒る事も本当に体力がいる事なんですよね。それをよくもまあ一週間に1度してくれたなと感謝しかありません。
それにチェロと言う楽器は学校の中でも凄く「ちょうどいい」人数で、同学年に当時は3人から5人、なのでみんなライバルでありながら凄く仲が良かった。それに先輩からもいろいろそ教えられましたし、なんとも幸運な学生生活だったと思っています。


今、毎日練習して、コンサートの度に緊張して終わっても落ち込み、もう演奏の依頼がなくなるかもと苦しむ毎日と比べて、学生時代の怒られる日々の苦しみなんて大した事ではないです。先生によって優しい先生も厳しい先生もいらっしゃると思いますが、僕には厳しい事を言わないとダメだと先生も思われたんでしょう。感謝しかありません。
コンサートの後レセプションがあって、その後さらに僕を徹底的に厳しく鍛えてくださった秋津先生と古川くんや若い人と深夜まで話しました。良い時間でした。
古川くんも秋津先生にめちゃくちゃ怒られた同志ですので、いろんな話が出て本当にいい時間でした。


秋津さんが
「僕が裕康の歳の時に何を考えていたのかを逆算して多分こういう事はまだ理解していないな、という事を教えたりしてた」
とおっしゃっていましたが、実に深いです。
僕が秋津さんに
「どんなに頑張っても秋津さんに近づく事はないので、10年ぐらいチェロから離れてもらえませんか?そうしたら少しは近づく事もあるかもしれない」
と言った後での秋津さんの言葉が先の言葉です。

僕も多少進化しているのかも知れませんが、秋津さんはもっと進化が早い。努力を全く辞めないですからね。


我々が仙川の桐朋学園でずっとリハーサルをしている時、リハーサルの前に、学生時代もの凄くお世話になった店のマスターのお見舞いに三宅さんと行きました。
そのマスターは僕らが全くお金がないのを知ってか知らぬか、サラダもご飯も超大盛りにして食べさせてくれました。
本当にギリギリお金こそ払いましたが、いつもお腹いっぱい食べさせてくれて、コンクールの前には「てめぇに食わせる物は何もないんだよ、帰れよ早く、帰ってすぐ練習しろよ」と言いながら店で1番高いサーロインステーキをごちそうしてくれたり、本当に学生時代の僕の骨格を作ってくれた恩人です。
そのマスターがお見舞いに行った次の日、名古屋公演の日の未明に亡くなりました。僕もそうですが、三宅、古川両氏も同じ様に世話になった方で、本当にショックでした。
「お前ら世話してやったんだから会いにこいよ、失礼な奴らだな」
とマスターが思ったんでしょう。
だからレールにしかれた様に僕も三宅さんも病院に行けたんだと思っています。
病院では苦しそうで僕はずっと号泣してました。
ご冥福をお祈りしますという言葉より、本当に有り難うございましたとしか言葉がみつかりません。

今回の学生時代の仲間や先生、先輩と仙川で再会していた最中にその仙川での僕の恩人が亡くなるなんて、運命とはこういう事なのかと思いました。


マスター、どうも本当に有り難う。
そして37人のチェリストの仲間、お疲れさま、そして有り難うございました。