中国 北京編

北京の空港に降り立った時は驚きました。機内で「天候は晴れ」とのアナウンスがあったのにもかかわらず、視界は悪く真っ白という感じでした。排気ガスのせいなのかなんなのかわかりませんでしたが、とにかくびっくり。
みんなマスクを着用していました。
ただ数日後、夜中に凄い雨が降った次の日は空気は綺麗になっていました。
自然の力に驚嘆したものです。

ホテルは北京飯店(ベイジン・ホテル)というたいそう老舗で、とにかく大きく首都北京で外資系のホテルには負けてはならないという並々ならぬ覚悟を持ったという印象が強いホテルでした。
生水は飲んではいけないという多くの人の助言から、お腹が弱めでビビリの僕は歯磨きもミネラルウォーターでする程の念の入れよう。おかげで10日ちょっとの中国でお腹を壊す事もなく帰国。
まあそれは良いとして、北京の事を。

25年前にアマチュアでチェロをやっていた(当時中央大学の学生)Mという僕の本当の初期のお弟子さんが今は出版業界で働いていて、北京在住。その彼と矢部くんの3人で食事をしました。彼が予約してくれたレストランと言うのが西太后の普段の料理をずっと作っていた料理長が開いたお店で、ずっとそのレシピを受け継いできたというレストラン。どうやら東京にもその支店があるみたいですが、そこで北京の昔からの味を経験。それまではここはダメだった、ここもダメだったといろいろ探して歩くものの、やはり日本人には日本人向けの中華料理が合うという事を思っていただけに、新鮮で美味しかった。意外に西太后さんも質素な家庭料理を食べていたんだなと。その彼と矢部くんとは6時間も中国という国についての話で時が経つのを忘れて語り合いました。

日本では当然だけど尖閣諸島の漁船の体当たりのニュースや中国国内での反日感情のニュース、あるいは冷凍のギョウザだったり、ネガティブな印象しかありませんでしたが、僕が出会った中国の人達は日本に対してそんな反感を持った人はいませんでした。もちろん中国人13億人すべてと会った訳ではありませんから、僕の印象などあてにならないと思いますが。

それから僕の頭の中では「国家の概念とは?」「国家って一体誰のためにある?」そんな事をずっと考えていました。それは今も頭の中を駆け巡ります。
専門家でもありませんから、僕の考える事など知れたものだとは思いますが、あの人にしてあの国家とはどうしても思えず、さらには日本でのネガティブなニュースはある意味一方的であるんだなと言う事も感じました。
それを信じても悪くはない。でもやはり国際的にこれから若い人が活躍するなら多くの知識をもち、その場所を訪れ、そして常にフェアな立ち位置から物事を論評できるようになって頂きたいと思いました。僕はこの歳にしてようやくそういう所に来れたものですから。

友人達と「永安里」という街に地下鉄に乗っていわゆる「偽ブランド」しか売っていない5階建てのビルに行きました。そこで買ったか買わないかは書きませんが、あの精度の高い時計やバッグ、そして商魂逞しい中国の人達の素顔を垣間みる事が出来て、いわゆる裏北京と言いますか、北京の素顔と言いますか、そういう人達にふれあう事は楽しい。海外に行くと必ず僕はそんな事をしています。タクシーの運転手に話しかけるのが1番いいのですが、中国ではなにしろ英語が全く通じない。という程英語も話せんませんが。なので中国では偽ブランドショップでの駆け引きに興じました。そこの店員さんは英語が何故か話せるんですよね。しかも粋なジョークを交えながら。

ここだけは見た方がいいと先ほどのMから言われたとおり、サイトウキネンの「万里の長城」ツアーに参加しました。松本では毎日歩いていたし、最近はタフが自慢の僕ですから、ちょろいもんだとナメてました。そこには「男坂」「女坂」と二つのコースがあり、当然厳しい「男坂」を登って行き止まりまで行き、降りて来ました。
あそこまで勾配がキツいとは思っていませんでしたし、下りはバテバテで放心状態でした。ともあれやはり万里の長城は一見の価値ありでした。英語では「Grate Wall」と呼んでいて、前の日にその呼び名がわからず、ホテルの掃除のおじさんに「明日long castle of BANRIに行く」と話したら「そんな所は知らないし行った事が無い」と言ってましたが当然でしたね。

北京という街はもの凄い経済発展を遂げ日の出の輝きはもちろんの事、まだまだ一歩裏通りに入るとそのうち壊されてなくなるんだろうなという日没の裏の北京があり、そして偽ブランドを始め僕たちが全く知らない深い夜の闇もある本当に朝、昼、晩、夜中が共存している街だなと僕は感じました。
東京オリンピックが1964年、北京オリンピックが2008年。44年の違いがありますが、その44年の差を一気に解消した顔も北京ですし、1964年当時の日本の姿とダブって見えるのも北京という事でしょうか。

なので、あの急激過ぎる街の発展、経済発展、そしてそれに付随する人々の格差は僕には恐ろしい気がします。現地の人に聞いたのですが、マンションの一室が日本円にして8000万円ぐらいで、全てが埋まっている。でもそこには誰も住んでいない、全ては投資らしい。実態の経済があるのかどうかも僕にはわからない。
それなのに共産党。これは何を物語るのか。
でも13億人とも14億人とも言われる50以上の民族を抱えた大国中国をまとめるには共産党である事しかもはや無いのではないかとも思えますし。
天安門広場を歩いた時、警察、公安、警備の人、そして私服の警察ともの凄い監視でした。私服の警察は目つきや立ち居振る舞いで意外にわかるものです。でも、全くわからない私服の警官も中には一杯いるんだと推察します。

天安門広場のあまりの大きさは想像を遥かに超えたものでした。

我々が北京で演奏したホールは「国家大劇院 音楽庁」という所で、大きな文字で「国家大劇院 江沢民」と書いてありました。警備が厳しく、毎日パスカードとパスポートが無いと入れませんでした。うっかりホールを出てしまいパスポートを持っていないと再入場は不可能でしたね。

中国を誤解していた部分が本当に沢山あったし、まだまだこんな何日かの旅では知る事の出来ないとてつもなく大きく、深い国である事は間違いない。
そしてやはりそれ相応の知識(それは歴史を含めてですが)を持ち、日本人としてではなく、偏りなく一人の人間として中国という国を見れるような人間になりたいと強く思った北京でした。