松本 4

この夏、松本で多くの人の多くの言葉に驚嘆したり、感心したり落胆したり、感動したり考えさせられたりとかなり忙しい。
当たり前だけど、やはり音楽と共に言葉の力は人間を上下左右と自由に翻弄できる。


その中でも僕の心に最も響き、反省させられた言葉がある。それは昼食中に親友から発せられた。


チャーハンに入っていた一匹の小さな海老を僕は残して箸を置き、お茶を飲んでいた。
その様子を見ながら親友は言った。
「その残った海老は何しに生まれて来たんだろうと思ってるよ。俺は食べられる事すら出来なかったのかよって」
しばらく考えて「そうだな」と言いながら僕は海老を食べた。彼の言葉は続く。
「そもそも、その海老が生まれて初めて泳げた時に『パパー、泳げたよ、泳ぐって気持ちいいね』『そうだろ?達哉、海は広いんだ、気をつけるんだぞ』という会話がその海老の家族で必ずあったはずだし。しかもその海老が捕らえられた時にも『パパー、離れ離れになるの嫌だー、寂しいよー!』『いずれパパもママも行くからな、どこかで必ず会えるから!』と言って涙を流して日本まで連れてこられ、そして何も知らずに松本まで来てだよ、中華鍋の中に入れられてそこで海老は自分の運命を知ったはずだよ。(そうか、僕は食べられるんだ)と。(弱肉強食が地球の自然の摂理とは言え、辛い)(だけど、僕は海老として立派な態度で食べられてやる)と決心までしたはずだよ。その海老をゴミのように残して捨てる行為は酷い」
と。

半分冗談っぽく語っていたけど、僕は相当堪えた。
そう、だからと言って菜食主義になる事はないにしても、やはり生きていたものを食すのであれば、その命に感謝して常に食べるという基本的な事を僕は忘れていた。
こんな人間には適当な事を言って福島の放射能はもう安全ですと言って人間の命を軽く扱う政府に対して文句を言う資格など無いと思った。

もう一度命の大切さを改めて考え、そして自分で気づかなかった僕の傲慢で不遜な部分を改めるいい機会となった。