セントラル愛知交響楽団

今年はある意味オーケストラの旅が続いている。
6月に名古屋フィルと合同演奏会があったり、夏のサイトウキネンから京響の創立60周年記念ツアー、神奈川フィル、晴れた海のオーケストラ、そしてこの一週間はセントラル愛知のドボルザークスターバト・マーテル定期演奏会から仙台でのセントラル愛知とバンコク交響楽団の合同演奏と昨夜のセントラル愛知の単独の東京公演まで、本当にあらゆる音楽仲間、オーケストラ仲間と話したし多くの事を教えられている。



明日からはアンサンブル金沢



セントラル愛知には年間そんなに沢山お手伝いに行っている訳ではないけれど、生まれ故郷のオーケストラで、僕の高校が創立10周年の時に高校に呼ばれてドボルザークのコンチェルトの1楽章を生徒さんの前で弾いた時にセントラル愛知と共演したのが最初の出会い。当時は確か「名古屋シティフィル」と言ってたと思うけれど、どれくらい前かな?名称を変更した。



僕と同年代の友人であった女性がコンサートマスターの一人としていたのですが、本当に若くしてこの世を去った事は本当に辛い事だった。
僕はどこのオーケストラに行っても「このオケはこうだから」と言って自分の仕事やスタイルは一切変えない。
でも、いつでも、どんな演奏会の後でも
(僕は何か1つでも役に立っているのかな?)
と思いながらホールを後にする。
昨日だってそう。
自分のあの時に出来る事は最大限やったつもりでいても、その判断が正しかったのか間違っていたのか、ずっと考え込んでしまう。
お酒を飲まないと言う事も大きいと思うけれど、コンサート後は実に沈んだ気分になって寝る事になるから身体に良くないな。そして大体眠れなくて大変な事になる。
このオーケストラの旅は身体に相当な負担がかかると言う事がわかった。



でもどこのオーケストラも必死なんだよね。
オーケストラを取り巻く環境は決して良い方向には向かっていない気がする。
でも、オーケストラが100年後にはこの世から消えるのでは?とヨーロッパですら言われている中で、なんとか後世に伝える仕事として頑張りたいな。


生まれ故郷にいくつもオーケストラはあるけど、その1つに参加して故郷に何か貢献出来たらとはいつも思う。
だけど、役に立っているのか?との問いの繰り返し。
でもどこのオケにも有り難い素晴らしき仲間がいるから。

ベートーヴェンピアノ協奏曲全曲演奏会

昨日、東京オペラシティにて、横山幸雄さんのピアノと「トリトン晴れた海のオーケストラ」によるベートーヴェンピアノ協奏曲全曲演奏会が行われた。


横山君の超人ぶりはショパンピアノ曲226曲を1日で弾くという演奏会を敢行した事だけでも十分な情報であるとは思うけど、その超人ぶりは健在だった。
体力もさることながら、僕にとってはそれを暗譜している事にまずは卒倒する。
まあともかく、ベートーヴェンのピアノ協奏曲を全曲1日弾く事の本当の凄さは実は僕にはわからないのかもしれない。ある意味僕の知らない風景を見ながら生きているようなものだから。


リハーサルの時、横山君に「超人健在だなぁ」って言うと「超人って人ではないって事?じゃあ何だろ?」と普通に返ってきた。とは言え、彼の中では自分に対する不満もあるかもしれないし、より高いレベルを目指している事は間違いないから、あまり超人という一言で片付けるのは止めようと思う。



今回彼の伴奏をした「トリトン晴れた海のオーケストラ」について書きたいと思う。
都響の矢部君がコンサートマスターとしてリードする指揮者がいない室内オーケストラでNPOトリトン・アーツ・ネットワークが2015年に立ち上げた生まれたてと言って良いオーケストラで、去年初めてコンサートを行った。そして今年も10月30日にだい2回目の定期公演を控えている。


リハーサルはもちろん矢部くんが「こうしたらどうだろ?」と提案をしながら進む。そしてその提案について方向が決まるとそれを整理作業に入るのだけれど、この整理作業がちょっと普通じゃなく面白い。
もちろんそのパート、パートで勝手にその方向に沿った音楽を作ろうとはするのだけれど、基本ドンピシャでコンサートマスターの矢部君に合わせようとするのではなく、空間の響きに対してどう次の音を出すかの議論が始まる。
音楽は立体だという事が特にチェロとバスの間では共通認識で、その立体の形をどうやって動かすかの話し合いが多い。もちろん主要なメロディ、楽器を生かす為の低音の在り方はしょっちゅう池松くんと話し合った。
最終的には一番重要な柱となる部分はコントラバスの合図で音を出す。
もちろん待つだけではなく、一緒に呼吸をしつつコントラバスの音を想像してコントラバス倍音を広げる作業に徹する事が最高に楽しく、そして最高に幸せな瞬間だったりする。
当然チェロの人からはコントラバスの池松くんは全く見えない。
気配だけの信頼だけ。気配って言ってもオーケストラやピアノは音を出している訳で、静まり返った中での気配ではない。
これが僕の中での一番のチェロバスの在り方だと思っていたし、奇しくも池松の理想でもあったらしい。
これが出来る所はこの「晴れた海のオーケストラ」でしかない。
それで音楽の基礎となる「盛り土」が出来れば、実はバイオリンも管楽器の方々も多分自由になれる筈だと思っている。


と、リハーサルやゲネプロではそれがもの凄く良い結果を生んだけど、本番は悪魔が舞い降りる。
目に見えない音楽の響きや和声感、そしてそれを生み出そうとする喜びに満ちた場所が急に恐ろしくなる。
浮き足立つとはこの事だ。
1番から順番に5番まで演奏会では弾いた訳だけど、2番の途中でようやく僕は正気を取り戻した。
ビオラの篠崎さんなどは2番が終わるまでダメだったと告白。
といって、何かが破滅的になった訳でもないのだけれど、その理想と思った空間に浮かぶ「何か」に対しての僕らのアプローチに「ビビリ」が入った事によって萎縮した部分もあり、またその「ビビリ」が今まで安心し切っていたリハーサルでは絶対に作れない瞬間を作ったりしていたのも事実だ。
だから音楽は素晴らしい。
だから音楽は難しい。

でもこのリハーサルを3日して、休憩時間はずっとベートーヴェンを語り、とても素晴らしい時間を過ごす事が出来た。そして5曲×3楽章で15の楽章が全て似る事もなく書かれているベートーヴェンの凄さを思い知った5日間だった。

僕たちの仕事はこのベートーヴェンがいかに素晴らしいか、いかに凄いかをお客様にお伝えする事。
それがもし出来ていたら嬉しいし、出来ていなかったらまたもう一度チャレンジだ。
こうやって、お互いを冗談も含めて貶し合いながら1つずつ音楽を作っていける喜びは何事にも代え難い。

ゲネプロも終わり、矢部君が「みなさん、もう他に何もないですか?やりたい所はありますか?質問でもなんでも」と言った時に「アンコールは何番?」と聞いてみたら「一人でバッハでも弾いたら」と返された。
そしたら僕の20歳も年下の隣のチェロの若者がニタニタしながら「だからバッハ毎日弾いていたんですね。準備万端ですね」と。
いや、ウォームアップをした後必ず3曲程バッハを弾くのがルーティーンになってるだけだっちゅうの。
まあ何歳離れていても、舞台の上では全て精神が平等である事が音楽をする時には一番大事な事なんだよね。


その中で全曲をあっと言う間に弾き終えていった横山君には心から感謝したい。
そしてこのオーケストラのみんな、トリトンのスタッフには感謝しかない。

ゲッツェルさん最後の定期

4年前に首席客演指揮者として神奈川フィルの指揮者陣に加わったサッシャゲッツェルさんがマーラーの5番を指揮してオーケストラを去る事になった。
実際は、県民ホールでのコンサートが明日(22日)行われ、展覧会の絵やプロコフエフのピアノ協奏曲の第3番等を演奏するけれど、定期演奏会としてはマーラーの5番が最後だった。


沢山色んな事を僕たちに与えてくれたし、ウィーンフィルでの多くのエピソードも語ってくれた。
個人的にはブラームスのドッペルコンチェルトやコルンゴルトのチェロ協奏曲を一緒に弾かせてもらった。
ブラームスのドッペルコンチェルトの時は彼の楽屋に行って「レッスンしてくれ」と頼んでドッペルコンチェルトなのに、一人で色々教わった。
コルンゴルトの協奏曲の時は楽屋で「コルンゴルトの音楽の秘密はね・・・」と本当に友達の様に接してくれながらも多弁ではないものの、多くの事を惜しげもなく教えてくれた。
その都度、英語じゃなくてドイツ語でこの話を聞けたらもっと良かっただろうな、と思ってたな。
去年の定期公演ではブラームスのピアノ協奏曲の2番をオピッツさんと共に2回も演奏出来た事は僕には忘れられない想い出となった。



そんな彼が4日間リハーサルをして最後のマーラーの5番を振った。
ゲネプロが終わり、指揮台から彼は言った。
「どにかくミスを恐れるな。とにかくミスを恐れてはいけない。中にはミスを数えるお客様もいるかも知れないけれど、僕たち全員がどれぐらい音楽を愛しているのかをお客様に伝えなければならないんだ。全員が。全員が。そして僕は首席客演指揮者からいなくなるけれど、これだけはいつも忘れないで演奏して欲しい」と。



マーラーの5番を弾くだけでも相当な難曲。マーラーで言えば9番や7番に匹敵する難しさがある。
とは言え、これは他のオーケストラのマーラーを聴きに行っても思う事だけど、マーラーの特殊性は全てバッハの低音進行やベートーヴェンの革新性の範疇に入るものだ。
例えばベートーヴェンのop.130の大フーガはマーラーの5番よりの先にいってると思うし、モーツアルトの晩年の3分ぐらいの短いピアノ曲マーラーの後に書かれたと言っても信じてしまう様な作品。
だから、結局はベートーヴェンやバッハ、或はモーツアルトをずっと演奏していないと、このマーラの5番という曲は手に入らないし、頭にも入らない。絶対にマーラーはこれらの曲を知った上で作曲しているのだから。



最近の若いチェロの演奏家は、どんな曲でも本当に素晴らしく弾くし、凄い時代がやって来たと思っている。
だけど、最近コントラバスの池松くんから貰った1974年の日本でのダニエル・シャフランのカバレフスキーのチェロ協奏曲第2番のライブ録音を聴いて、これほどのチェロ弾きはまだ現代には出ていないと思うし、フォイアマンを超えるチェリストがいたら教えて欲しいし、やっぱりどんな時代でも昔の演奏家を訪ねていかないとそれ以上の時代も来ない気がする。
僕はそのシャフランのコンサートの会場に師匠である故・井上頼豊先生がいた事を思っただけでも感動する。



先日のコンサートは確かにミスは多かった。連鎖というものは恐いものだとも思った。
自分への反省はしたけれど、失望したり幻滅したりはしなかった。
僕の人生、音楽の旅の1コマだから。
どんな素晴らしい演奏でも、どんなに酷い演奏でも、過去になれば単なる想い出でしかない。
クライバーウィーン国立歌劇場の「薔薇の騎士」も想い出だし、僕が初めて発表会でサンサーンスの協奏曲の1楽章を弾いてエンドピンを滑らせたのも同じ想い出。
僕の未来にはどういう未来が待っているか知らないけど、とにかくゲッツェルさんが言う様に音楽の旅は人生の旅だと強く思ったのが先日のコンサートだった。


そして今はどっぷりベートーヴェンのピアノ協奏曲の中に沈んでいる。
明日が演奏会だ。
これも今月の旅の中の1つ。そして想い出になるだろう。

京響創立60周年記念ツアー

サイトウキネンが終わり、夏の終わりを感じる暇もなく京都へ。
京都は京都市交響楽団の創立60周年記念ツアーのためでしたが、これも僕には将来の糧となる貴重な経験をさせてもらった。
五嶋みどりさんをソリストにお迎えしてチャイコフスキーのバイオリン協奏曲、ゲストコンサートマスターとして豊嶋さんに来て頂き「シェヘラザード」というプログラムで、静岡、刈谷、津、京都の4日連続の演奏会だった。

オーケストラで働く様になって25年程経つけれど、五島みどりさんを生で聴いたのも伴奏をさせて頂いたのも初めてだった。
まだ五嶋みどりさんが10代の頃の有名なエピソードはもちろん知っていたけれど、そのみどりさんが今の年齢になりどんな演奏家になっているんだろう?と、凄く楽しみだった。
でも実際は楽しみだったとか、素晴らしかったという次元の話ではなかった。

佇まいはもはや仏様。
そして楽屋から聴こえて来る練習は努力とかそういう物ではなく、修行僧のようだった。
チャイコフスキーの協奏曲などもう何百回と弾いて来ただろうに、あの細部に渡っての練習や音階練習など、やっぱり世界を走るランナーの凄さを知った。
4日連続で協奏曲、とか、関空に着いてその足で練習場に直行してきたとか、そんな事で凄いと思っている自分が情けなくなったわ。
なにが出来ないって、その練習の量がまず僕はこなす事ができない。
3日目の津での演奏会が終わって、僕たちは終演後そそくさと京都に戻った訳だけど、みどりさんは終演後2時間かけてサイン会をして、そのあと津でずっと練習していたと聞いた。
その津から京都に戻った日に豊嶋さんと京都で食事をしたけれど、そのみどりさんの毎日何かが上昇して行く演奏の凄さが話のほとんどだった。

とは言え豊嶋さんと別れ、ホテルに戻ってからずっと、豊嶋さんの毎日磨かれて行く「シェヘラザード」のソロについて考えていた。彼も凄い。音の煌めき度合いが毎回上がって行くってホントに凄い事。
それは何かを変えないとああならないし、何かを求めないともちろんそうならない。
それを求めてるソリストコンサートマスターには「お前もちゃんとしろよ」と言われたようなものだ。
京都での4回目の演奏会も二人ともさらにギアが入った演奏だった。

シェヘラザードには地味ではあるけれど、チェロのソロもかなり出て来る。
今までにも何度この曲をやっても、決していい想い出を作る事は出来なかった。
今回も今出来るありとあらゆる事をチャレンジしたけれど、今はこれが限界かとがっくりした。
まあでも明日こそ、と思って頑張るしかないね。

僕が2001年に初めて京都市交響楽団にゲストとして参加させてもらった時、この「シェヘラザード」だった。
15年という時の流れの中、僕はなんか少しでも利口になったんだろうか?
と思いながら東京に戻った。
疲労感は旅の疲労と、あまりに凄い演奏や歩み方を見せられた事もあり倍増した。
その次の日からはゲッツェルさんの首席客演指揮者としての最後の定期演奏会であるマーラーの5番のリハーサルだった。

サイトウキネン 5

3週間に渡っての僕の夏、サイトウキネン・オーケストラの公演が全て終了した。
フェスティバルとしては正確に言うと小澤塾によるラベルの「子供と魔法」の公演は残っているけれど、サイトウキネン・オーケストラの公演は全て終了した事になる。


3週間も松本に滞在していた訳だから、指揮者やオーケストラのメンバーはもちろんスタッフ、ボランティアの方々、美味しい食事を毎日食べさせて頂いたお店の数々等々、当然多くの方々と関わり、お世話になり、そして再び大事な事を沢山得て東京に帰る事になった。
お世話になった方々一人一人にお礼を言いたいけれど、この場をお借りして感謝の気持ちを表させて頂きたく思う。



本当にありがとうございました。



小澤総監督、ファビオ・ルイージさんやオーケストラのメンバーの方々からは自分の努力だけでは見える事の出来ない世界を見せてもらって、僕の音楽家としての未熟な事、足りない事、やらなければ行けない事を今年も沢山突きつけられた。でもこれは本気で頑張らないと音楽界の中で足手まといになる。
でも、本当に大事な事は、このフェスティバルから僕が何を得て、何を今の若いプレイヤーに伝えていかなければならないか?という事だと思う。
名前こそサイトウキネンフェスティバルからセイジ・オザワ松本フェスティバルと変わったけれど、理念は一貫していると思う。
上村昇さんとフェスティバルの後半に二人で食事をした時に「斎藤秀雄先生を始め、その当時のパイオニアの方々、そして今の小澤総監督、どうしてそこまで命や身体を削ってでも伝えようとしているのか」という事が話の中心となった。
そして「それを僕たちは真似出来るんだろうか?」という事に話は行き着く。
あそこまで出来ないにしろ、やっぱり音楽家である以上この偉大な音楽という遺産、楽曲という地球の財産を後世に正しく伝える事、そして絶やす事がない様にして行く事こそ、僕らの仕事じゃないか?と。
上村さんだけではない。
矢部君だって原田禎夫さんだって同じ様な事を言う。



それを正しく伝える為に日夜あーでもないこーでもないと奏法を変えてみたり戻したりの毎日。
年齢を重ねればフィジカルは衰えて当然。それを衰えていない年齢の時以上の結果を生む為の努力は本当に苦しい。でもそれをしないと、毎日の自分の関わるオーケストラでも迷惑にしかならないし、当然サイトウキネンで要求される全ての事は全く応えられない。
多くのメンバーのどんな年齢でも凄まじい努力を目の当たりにする事が、まずはそれが僕を押しつぶすんだよね。
それは個人的な事として。


この斎藤先生や当時のパイオニア達が心血を注いだ様に僕もそれをもっとやらないと。
それは演奏する事でもあり、教える事でもあり。

こうやって3週間の滞在から途方もない宿題を与えられて東京に帰ってきた。
何をしなきゃいけないかをまずは落ち着いて自分で整理しようと思う。

サイトウキネン 4

小澤総監督が指揮をしたベートーベンの7番の前日、チェロの上村昇さんが15歳も年下の僕に
「明日は一緒に良いベートーベンを弾こうね。今から楽しみにしてる。良いベートーベンを。お疲れ様」
と言って帰って行った。
僕は嬉しかった。
次の日の小澤総監督のベートーベンの7番は僕にとっても多分忘れる事の出来ないベートーベンとなったし、その終演後上村昇さんも「ひろやすくん、楽しかったねぇ、良いベートーベンだったし、やっぱりベートーベンだよね、ありがとう」と言って帰って行った。


そのベートーベンの次の日は僕たち演奏家はDay Offで1日何もなかった。
僕は家にいる猫と遊ぶ為に、そして6日以上続いたリハーサルと4回の本番の疲れをなんとかしたくて鍼に行く為に日帰りで東京に戻った。


28日の本番ではイベールの「ディヴェルティスマン」という曲を演奏するのだけど、チェロは2人で僕と上村昇さん。リハーサル後に上村さんが僕に言った。
「オフの日はどうしてたの?」と。
「東京に帰ったんですよ。鍼に行きたかったのと、老猫と遊んであげたくて。上村さんは松本にいたんですか?」
と今度は逆に僕が質問した。そうしたら上村さんは、
「京都に帰ったんだよ。フェスティバルが始まる前からちょっと家の猫があまり調子が良くなくて、心配だったから朝松本を出て京都に着いて車に乗って家に向かう途中、家族から電話で『今息を引き取った』って言われてさ。温かいうちに撫ぜてあげたかったんだよ。家に着いたら冷たくなっててね。冷たい猫を何度も撫ぜてあげたんだけどね。もう少し頑張って欲しかったなぁ。悲しくてね。猫の葬儀を済ませてから松本に戻ったんだよね。あの日は」
と目を真っ赤にして話してくれた。
僕は貰い泣きしてしまった。
上村さんの所の猫は享年21歳だったそうだ。
うちの猫は今19歳。
重なる所もあり、完全に貰い泣きをした。


上村さんが言った「良いベートーベン」は猫ちゃんに捧げられた演奏でもあったんだな。
調子が悪く、明日にでも帰らないとと思ってあのベートーベンを弾いてらっしゃったんだなと思うとさらに泣けてきた。上村さんがご自宅にもどるまでは少しだけ頑張りきれなかったかも知れないけど、上村さんが渾身の演奏をしたベートーベンの7番を弾き終えるまでは猫ちゃんもしっかり頑張ったんだなと。



君は21年間、上村さんの素晴らしいチェロをずっと聴いてきたんだね。
それも演奏会ではなく、とにかく自分に厳しい上村さんの家での練習を。
でもこれからはいつでも天国で本番が聴けるんだね。
君がが天国で初めて耳にする上村さんの弾く曲はイベールの「ディヴェルティスマン」という曲だよ。
凄く楽しく洒脱な曲だよ。
僕は君に会った事はないけれど、天国で楽しく過ごせる為に僕も上村さんもエンジョイして弾くから。
聴いててよ。
僕は君を心から可愛がった上村さんと2人で弾ける事がとにかく誇りだから。
今度は僕から上村さんに言うよ。
「28日は一緒に楽しく良いイベールを弾きましょうね。猫ちゃんも楽しみにしてるし。楽しく良いイベールを」と。

サイトウキネン 3

ファビオ・ルイージという指揮者。
音楽的な才能や見識はもちろんの事、人間としても優しくユーモアに溢れた本当に頭の良い紳士だと思う。
もちろんプライベートの事は知る由もないけれど、少なくとも指揮台の上での彼は文句のつけようがない。



こんな事があった。
マーラーの「復活」のリハーサル中、男性の合唱に対して
「ブレスをする時に、息を吸う音が聞こえない様にして欲しい。僕はそれが誰と誰と言う事はわかっているけれど、残念ながら名前を知らないので言えない」
と言った。
そこでオーケストラも合唱団も笑った。
何気ない注意とジョークではあるけれど、「誰と誰」と言った事がミソだと思った。
多分、息を吸う音が大きかった方は自分で気付いていると思う。それを(ルイージさんは僕であるとわかっているんだ)と自覚したと思う。指揮者からチェロへの注意があった時に僕も少し落ち込むしバツが悪くなると同じ様にその合唱団の自覚した方も同じ心持ちになったと想像する。
だけど「残念ながら名前を知らないので言えない」という一言で笑いを誘って重要な注意であるのにいい雰囲気で終わらせた事に感心した。

何度何度も練習番号の15番からをやっていて「これが最後。15番から。これが最後と約束をする」と始めたとたん再びオーケストラの演奏を止めて注意をした。そして「最後と約束したから15番からはもちろんしない。15番の2小節目から」とルイージさんは言った。
ここまで回数をやるとオーケストラも「またか?」と思うのに、その一言で笑いに包まれてそういう気分にもならなくなる。素晴らしい言葉を繰り出す指揮者だと思う。

去年のマーラーの5番の時もチェロとコントラバスのピチカートを合わないからと何度もリハーサルしていた時に「素晴らしい!完璧だ!これなら何も心配はない」と褒めちぎった後に「でも僕たちには一度しかそのチャンスはない」とオーケストラを笑わせてさらには釘をさした。
(あの感じでやれば良いんだ)とチェロとコントラバスの人は思ったに違いないけれど、僕らにはチャンスは一度しかないんだというその部分においての集中力を植え付け、さらには柔らかな雰囲気でその部分のリハーサルを終わらせた。


決して怒る訳でもないし、決して冗談ばかりを言っている訳でもない、そのバランスがあまりに見事な紳士なんだと思う。


僕はその頃まだ参加していなかったけれど、小澤さんがベートーベンの運命の冒頭が上手くいかなくて、「どうしたら良いんだ?」と何度もリハーサルをしてた時の事。
その時に既に海外生活が長く、英語の方が上手な日本人のとあるバイオリン奏者が言った一言が秀逸だったそうだ。
「小澤さんを見るなら全員が見る、見ないのなら全員が小澤さんを見なければ合うと思う」
とおっしゃったらしい。
でも不思議とその一言から問題なく冒頭が揃う様になったそうだ。


言葉は本当に不思議だし、その場にはその場に適切な言葉がある様に思う。
それを指揮台で言える指揮者はやっぱりオーケストラに愛されるし、ウケ狙いとわかってしまったとたんにオーケストラは一瞬で離れて行く。それだけオーケストラも指揮者の一言に耳を傾けているし、そのニュアンンスも音楽家ならではの耳で聴き取るから大変難しいと思う。
ファビオ・ルイージは愛されている典型例だけど、神奈川フィルに来る指揮者としてはサッシャゲッツェルさんもそのタイプだと思う。